以前に、「この空手(武道)をしてなんになるのか?」
と言うことを言われたことがある。
無想会の空手は新垣師範がかなりわかりやすく指導してくれているが、
その指導方法は必ず思考させるようにしているように思えてならない。
あるいは師範が解りやすく指導してくれていても、
自分との対話をせざるを得ない。
(私の場合は同好会の人たちにかなり助けられているので幸運である)
したがって、既存のスポーツのようにある程度簡単に再現し、
即理解できることはない。
理解できてもまだまだ甘かったりする。
なので、自己との対話はかなり厳しくしなければ浅い所でウロウロしてしまう。
なのでジレンマと言おうか「こんなことしてなんになる」
そのような考えも浮かぶのはとうぜんなことです。
では、武道を稽古してなんになるのか?
(まだ、若い方々は強さを目指すのは当然として、しかし、強さとは他との比較があって初めて確認できることで、そちらばかりに気をとられてはいけない。)
武道は自己の身体操作を細かく見つめ理解(競己)することで、
コアの部分を観れる目を持つことができるのではないだろうか?
それが以前に書いたパンフレットの話。
あの内容は10年以上も前に読んだもの。(問いかけられたもの)
前にも書いたと思うが当時はチンプンカンプンであった。
パンフにも書いてあるが、昔は武士であれ、職人であれそういう目を持っている人が
まだまだ、多くいたのだろう。
なので、西洋文化に触れたとき即座に理解し取り入れることができたのだと思う。
私は武道に触れて7年してようやく理解できた。
セミナーの飲み会でH氏が凄いことを言う。
ナイファンチの修業で学んだことを仕事に行かせないか?(しかも実践しているっぽい?)
こういう考えをする人が出てきたことは凄いことだと思う。
以前は私のようにある程度してきた人が次に学べばいい。
くらいに考えてきたが、最近は中学生から学び、
この様な目を持つ若い人たちを増やすことのほうが大事だと思うようになった。
私は実は、師範の著書「沖縄武道空手の極意」のあとがきが好きで、
一番好きなのは一巻だったりする。
その最後にこうある。
「私は空手の為に、空手は沖縄の為に、沖縄は日本の為に、
日本は世界の為に、そして、すべては神の為に。」
空手してなんになるのか?
私には答えだけ理解できたと思っている。